【AICE連載セミナー】エネルギーの歴史とカーボンニュートラル(第1部 第2回)(成城大学 平野 創)
- コラム
2026.06.26
【AICE連載セミナー】エネルギーの歴史とカーボンニュートラル(第1部 第2回)(成城大学 平野 創)
著者 成城大学:平野 創
【各回の内容】
第1部 歴史が示すエネルギー転換の条件
第1回 エネルギー転換の歴史:鯨油から石油へと至る最初の転換
第2回 エネルギー革命の教訓:合理化と「動く目標」の罠
第3回 経営環境の変化とその対応:転換期に問われた意思決定
第4回 エネルギー危機の教訓:不安定性と一貫性のはざまで
===以下は別のコラムとして執筆===
第5回 カーボンニュートラルと製造業:確実な低炭素社会の実現を目指す
第6回 カーボンニュートラルとエネルギー産業:製造業に先行したCNの実現
第7回 エネルギー産業の上から目線:需要家目線の重要性
第8回 不確実性をどう考えるのか:予見される3つのシナリオと行動することの意義
第9回 カーボンニュートラル社会を目指す際の要点:本質に立ち返る重要性
第2回 エネルギー革命の教訓:合理化と「動く目標」の罠
転換の兆候:石炭から石油へ
今回のコラムでは,1960年代の日本で生じた石炭から石油へのエネルギー転換,いわゆる「エネルギー革命」に注目する[1].この転換は,十年足らずの間にエネルギーの主役を石炭から石油へと置き換え,日本の産業構造を根底から変えた.ここでは,1950年代からすでに現れていた転換の兆候と,それに対する政府・石炭企業の対応,そしてその帰結を振り返りたい.
日本の石炭産業は戦後復興の立役者でありながら,1950年代から静かに終わりの始まりを迎えていた.石油が一次エネルギー供給の主役に躍り出るのは1962年度であるが,その転換の兆しはそれ以前から始まっていた.当時の需要の中心は,家庭や鉄道・船舶向けの燃料用一般炭であり,その比率は75〜80%に達していた.1950年代前半の最大の需要者は鉄道・船舶業であったが,後半には電力業へと主軸が移る.
こうした大口需要家向けの石炭需要は,1960年代以降,急速に縮小していった.1960年から国鉄が「動力近代化計画」に着手し,電化とディーゼル化を進めたことは象徴的な出来事である.最終的に1975年には無煙化が達成され,鉄道の石炭需要はほぼ消滅した.電力業に関しても,資源小国である日本は,諸外国に先駆けていち早く石油の安定的かつ低廉な輸入体制を構築し,1973年度には,一次エネルギー供給に占める石油の比率が約78%に達した.
合理化政策の展開と「動く目標」:石炭を守る政策の限界
石炭から石油へのエネルギー転換が予見される中で,当初政府は石炭産業を守るための政策を次々と打ち出した.1950年代後半に,中東原油の増産とタンカー輸送の大型化によって輸入石油のコストは急速に下がり,熱量あたりで見れば,すでに石炭よりも石油の方が明確に安価となっていた.しかも石油は扱いやすく,保管や輸送コストも低かった.こうして価格・利便性の両面で石油が石炭を凌駕しつつあったのである.
こうした状況の下で,政府は国内石炭産業の市場・需要を守るため,外貨割当制度を活用して重油輸入を抑制し,一般炭の輸入を原則禁止とした.さらに,原油や重油への関税を引き上げ,石油価格を人為的に押し上げることで,国内炭との価格差を縮めようと試みた.同時に,電力・鉄鋼・ガス業に対して国内炭の引き取り拡大を要請し,そのコスト増分を政府が補填する仕組みも整えた.
1960年度からは石炭産業の競争力回復を狙い,「炭価1,200円引き下げ合理化計画」が実施された.立坑開発方式の導入や老朽炭鉱の整理,維持炭鉱の技術改良,研究開発の継続,離職者対策の強化などさまざまな手段が総動員された.政府は貸付制度などの予算措置も講じ,資金調達の円滑化を支えた.
その成果は数値に現れた.1957年から1961年の間に炭鉱数は864から662へ減り,労務者は30.9万人から20.5万人へ減少しつつも,生産高は5,225万トンから5,541万トンへと増加することで,生産能率は14.5トン/人・月から21.7トン/人・月へと約1.5倍に上昇した.確かに「合理化」は進み,産業の効率性は飛躍的に高まった.
しかしながら,合理化が一定の成果を上げたにもかかわらず,石炭は石油との競争に勝利することはなかった.1960年以降,石油業界は貿易自由化を見据えてシェア拡大に動き,重油価格は1年足らずで9,000円/klから7,200円/klへと急落した.炭価を1,200円引き下げても重油のコストには到底太刀打ちできなかったのである.ついに1962年10月,政府の石炭鉱業調査団は「石炭が重油に対抗できないということは,今や決定的である」と結論づけた.
これ以降,政策の焦点は競争から秩序ある撤退へと移る.エネルギー安全保障上の必要性と炭鉱地域の社会的摩擦への配慮を理由に,政府は産業の「軟着陸」に舵を切った.電力・鉄鋼・ガス業との長期安定引き取り契約が進められ,設備の新設やスクラップ・アンド・ビルトへの資金支援が強化された.同時に閉山交付金や利子補給制度が整備され,撤退支援の枠組みが整った.1950年代の石炭合理化は,技術と効率の面では成果を残したものの,それは構造変化を覆す力にはなりえなかったのである.
事例からの含意:合理化の限界と構造的リスク
この「目標値が動く」という構造的リスクこそ,当時の石炭産業が直面した問題の本質だった.エネルギーの経済的価値は絶対的ではなく,常に他の資源との相対的な関係によって定まる.石炭が安くなったとしても同時に石油がさらに安くなれば,努力の成果は喪失するのである.石炭産業が目指した合理化は「固定された目標を達成する戦略」でしかなく,現実の市場では比較対象である石油の価格や供給条件も刻一刻と変化していくことが意識されていなかった.
この構造は現代のエネルギー転換にも通底する.「水素が○○円になれば商業化できる」,「再エネが○○円/kWhを切れば化石燃料に伍する」といった議論が存在し,それを前提に我々は行動している.しかしながら,市場は静止しておらず,常に他のエネルギー源や技術進歩,制度設計との相対的な位置づけの中で立ち位置は変化し,到達点を想定してもそこに達する頃には基準値が動いている可能性がある.したがって,本質的に問われるのは「目標を達成する力」のみならず,「目標が動く前提で競争構造を再設計できる力」を持つことなのである.外部環境が動く速度を見極め,自社の立ち位置を随時再定義できる組織の柔軟性こそが構造変化の時代における最大の競争力となる.
1950年代の石炭産業は,守りの合理化によって延命を図ったが,変化の本流を変えることはできなかった.この経験が示しているのは,合理化は必要であっても,それだけでは構造転換の潮流を止められないということである.重要なのは,いかに早く「勝てる領域」と「撤退すべき領域」を見極め,全体構造を描き直すかである.「目標値が動く」という教訓は,今日のエネルギー転換期においても,経営者に対する重要な警鐘となる.
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【参考文献】
小堀聡(2010)『日本のエネルギー革命』名古屋大学出版会.
島西智輝(2011)『日本石炭の戦後史』慶應義塾大学出版会.
石炭政策史編纂委員会編(2002)『石炭政策史』石炭エネルギーセンター.
[1]日本のエネルギー革命については小堀(2010),石炭産業における合理化については島西(2011),政府の政策については石炭政策史編纂委員会編(2002)を参照した.

