【AICE連載セミナー】エネルギーの歴史とカーボンニュートラル(第1部 第3回)(成城大学 平野 創)
- コラム
2026.07.21
【AICE連載セミナー】エネルギーの歴史とカーボンニュートラル(第1部 第3回)(成城大学 平野 創)
著者 成城大学:平野 創
【各回の内容】
第1部 歴史が示すエネルギー転換の条件
第1回 エネルギー転換の歴史:鯨油から石油へと至る最初の転換
第3回 経営環境の変化とその対応:転換期に問われた意思決定
第4回 エネルギー危機の教訓:不安定性と一貫性のはざまで
===以下は別のコラムとして執筆===
第5回 カーボンニュートラルと製造業:確実な低炭素社会の実現を目指す
第6回 カーボンニュートラルとエネルギー産業:製造業に先行したCNの実現
第7回 エネルギー産業の上から目線:需要家目線の重要性
第8回 不確実性をどう考えるのか:予見される3つのシナリオと行動することの意義
第9回 カーボンニュートラル社会を目指す際の要点:本質に立ち返る重要性
第3回 経営環境の変化とその対応:転換期に問われた意思決定
石炭企業の対応とその帰結:転換期における3つの戦略
前回のコラムで述べたように,日本の石炭産業は,政策的な合理化によって生産性向上を実現したものの,構造転換の潮流には抗し得なかった.合理化は延命をもたらしたが,時代の基軸を変える力とはならなかった.市場環境が変動するなかで,目標値そのものが動き,合理化戦略の有効性は次第に失われていったのである.
今回のコラムでは1960年代初頭における石炭企業の対応に焦点を移し,こうした政策的保護と市場変動のはざまで,企業にはどのような選択肢があり,それぞれの意思決定はどのような帰結をもたらしたのかを概観する[1].
1962年,政府の石炭鉱業調査団が「石炭はもはや重油に対抗できない」と明言したことで政策の主軸は「保護」から「退出支援」へと転じ,石炭企業はそれぞれの経営判断によって,存続か撤退かの決断を迫られることになる.彼らが選び得た道は大きく三つに分かれていた.①市場からの完全撤退,②エネルギー企業としての本業強化,③多角化による事業転換である.以下では,それぞれの戦略とその帰結を見ていきたい.
■ 戦略Ⅰ:市場からの撤退――「売れるうちに売る」という合理的判断
相対的に競争力に乏しい企業が選んだのは,市場からの完全撤退という道であった.この戦略を可能にした背景には,政府による手厚い退出支援がある.閉山交付金制度や離職者対策費,さらに閉山費用融資制度の導入によって,撤退コストが大幅に低下した.通商産業省(当時)は,年産310万トン規模の閉山を想定していたが,申請開始直後に61炭鉱・305万トンの閉山申請が殺到し,最終的には500万トンを超える規模に達した.多くの企業が「撤退できるうちに撤退する」という合理的な行動を選んだのである.こうした現象は,後年のアルミ製錬業などでも見られる(三和,2016).つまり,状況が悪化し始めた時点において,当該事業を「売れるうちに売る」判断は構造的危機に直面する企業にとって重要な戦略的選択肢である.
■ 戦略Ⅱ:本業の強化――延命をもたらしたが構造変化を覆せず
旧財閥系企業(三井鉱山,住友石炭鉱業など)を中心に比較的競争力を有する大手企業が選んだのは,本業の強化による「エネルギー企業」としての存続路線であった.各社は炭田の選択と集中を進め,筑豊・唐津といった低カロリー炭を産出する劣等炭田を整理し,三池・高島・石狩・釧路などの優等炭田に資源を集中した.さらに,選別した炭鉱では機械化・近代化を積極的に推進し,効率化によって競争力を維持しようと試みた.例えば筑豊で最後まで生き残った貝島炭鉱は,労務整理を進めながら1953年に新坑(新菅牟田坑)を竣工し,高品質炭の供給を継続した(劉,2007).その結果,これらの企業は1970年代に入っても一定の採掘を続けることができた.
しかし,こうした本業を守るための改革は,構造的な劣勢を覆すには至らなかった.1980年代以降,石油や安価な海外炭との価格競争に抗しきれず,各社は再び追い込まれていく.一部の企業は急ぎ多角化を進めたが対応は後手に回った.例えば三井鉱山は1960年に重油・灯油の仕入販売を始めるなど石油販売にも進出したが,2008年度にはこの事業から撤退しており,石油を中核とするエネルギー企業へ転身するには至らなかった[2].また,当時流行であったレジャー事業(旧三井グリーンランド)への進出や生活関連分野への多角化なども進めたものの,いずれも大きな柱とはならなかった.最終的には経営難に陥り,産業再生機構の支援を受けて新日鉄グループの傘下に入った.三井銀行,三井物産と並び三井御三家の一角を占めていた三井鉱山であっても生き残ることは容易ではなかったのである.三井鉱山の流れをくむ日本コークス工業は,現在,石炭の輸入販売やコークス製造,粉体加工技術などを基盤として再建を果たしている.ただし,石油や新エネルギーを中核とする企業へ転換したわけではなく,石炭関連事業を基盤とする企業であり続けている.
■ 戦略Ⅲ:多角化と事業転換――早期の判断が生き残りを導く
一方で早期に多角化を進めた企業は,転換期を比較的円滑に乗り切った.特徴的なのは,これらの企業がすでに戦前から石炭以外の事業を手掛けており,既存の資源や技術を活かして周辺分野へと展開していた点である.その典型例は宇部興産であり,同社は「有限の鉱業から無限の工業へ」という理念のもと,石炭需要がピークを迎えるよりも早く,1923年にはセメント,1934年には化学肥料の生産を開始し,化学工業へも進出した[3].さらに1964年には当時の成長産業であった石油化学産業への進出も遂げた.同社は1967年に炭鉱を閉山したが,業績への影響は軽微であったという.石炭事業についても,1974年にはオーストラリア企業との長期契約により一般炭輸入の突破口を開き,海外炭を扱う新しい形で事業の再構築を実現したのである.このように,危機が顕在化する前に事業ポートフォリオを組み替えた企業ほど,長期的に存続することができたのである.
事例からの含意:早期の認識と決断が生存を分ける
石炭産業の事例が示すのは,構造転換期における戦略の明暗である.撤退を選んだ企業は,政策的支援をうまく活用し,損失を最小化して市場から撤退した.「撤退」という選択肢は一見後ろ向きの意思決定と思われがちであるものの,「売れるうちに売る」という経営判断の重要性を物語っている.一方,本業強化にこだわった企業は,経済的には合理的な施策を打ちつつも構造的な価格劣位を前に改革が「延命策」にとどまり,ある程度生き残れたことが,かえって転換のタイミングを逃す要因となった.既存のやり方や発想に縛られた結果,化学工業など有力な新事業分野への参入が遅れたのである.他方,多角化を早期に進めた企業は危機の到来以前から柔軟な経営資源の再配分を行い,変化を先取りすることで生き残った.また,主要石炭企業の中から,石油を中核とする企業へ本格的に転じた例がほとんど現れなかったことは,巨大な売上規模と莫大な投資を要するエネルギー産業において,エネルギー企業からエネルギー企業への転換がいかに困難であるかを示している.
エネルギー転換が再び問われる現代においてもこの教訓は重い.変化の波を前に「守る改革」に終始するのか,困難な道筋であっても「構造を描き直す」決断を下すのか,未来を左右するのは変化を恐れず自社の領域を再定義する経営者の意思そのものである.
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【参考文献】
宇部興産株式会社百年史編纂委員会編(1998)『宇部興産創業百年史』.
平野創(2024)「エネルギー転換と企業行動」企業家研究フォーラム2023年度春季研究会報告資料.
三井鉱山総務部(1990)『男たちの世紀 三井鉱山の百年』.
三和元(2016)『日本のアルミニウム産業』三重大学出版会.
劉道学(2007)「第二次世界大戦後における貝島炭鉱株式会社の経営動向:1950-1965年を中心に」『エネルギー史研究』第22巻.
[1]今回のコラムについては,平野(2024)に基づいている.
[2]三井鉱山の事例については,三井鉱山総務部(1990)および日本コークス工業ホームページ(https://www.n-coke.com/)を参照した.
[3]宇部興産の事例については,宇部興産株式会社百年史編纂委員会編(1998)を参照した.

